硝子の物語Story

未来への希望

時空を超えて、人々を魅了するガラス

未来への希望 | 2024.8.26
世界中に散らばるガラスの面影

 

古代メソポタミアからその存在が確認されていながら、いまだに分からない部分の多いガラス。人の手を通じ、その国の文化になじみながら巡り巡った痕跡を世界中に残している神秘的な存在です。

 

「ガラスは古くから光の美しさをひきだす特徴がありました。江戸切子が生まれたのは江戸時代後期の1834年ですが、17~18世紀のイギリスやボヘミアのガラス製品、それより前のステンドグラスや宝飾品などから学ぶことも多いです。私たちがガラスについて考えるということは、長い歴史の中で世界中に散らばったガラスの面影と対話することだと思っています」

そう語るのは、江戸切子の老舗工房・清水硝子の常務取締役である清水祐一郎さん。

 

「日本にもたらされたガラスは、シルクロードを通って現在の中国を経たものが多いのではないかと思いますが、その距離を思うと、畏敬の念を抱かずにはいられません。

当時からガラスは贈り物の意味合いが強かったんですが、今でも海外出張に行かれる方が江戸切子をお土産にお持ちになるとうかがうと、昔もこんなふうにして人の手で運ばれていたのかなと改めて思います」

 

 

 

 

 

美しきガラスを人々はどう受け止め、どう取り入れたのか

 

他の国からもたらされたガラスを初めて目にし、当時の人々は何を思ったのでしょう。透き通る美しい品に触れ、持ちうるだけの知識と想像力を用いて、自分たちなりに使い方を考えたり、同じものをつくってみたいと切望したりしたのかもしれません。

「珍しいものが入ってきた時の受け止め方は、各国で違うでしょうね。ガラス製品を猫型の貯金箱やお菓子入れにしようなんて思うのは、今もキャラクターが文化が根付く日本人ならではじゃないでしょうか。また、ガラスを日本料理の様式や文化にどう溶け込ませるかという工夫も、繰り返されてきたはずです。たとえば、洋食が定着しても日本の食卓の主流はお箸。フォークやナイフを使うようになっても、日本の食文化に最も適したカトラリーは変わりません。」(清水さん)

 

既存の焼き物の器に揃えるため、今でも尺貫寸法でガラス食器の制作を依頼されることがあるのだとか。

 

「うちもガラス食器の製造が中心でしたから、食文化の影響はとても大きいと感じます」

 

廣田硝子の四代目廣田達朗さんもうなずきます。

「江戸切子は、明治初期に日本初の官営ガラス製造工場である『品川硝子製造所』が設立された後、切子(カット)指導者として英国人技師のエマニュエル・ホープトマン氏を招き、その指導を受けたそうですね。その後、切子の柄は日本でどのように変化したと思いますか」(廣田さん)

 

「江戸切子と英国のカットでは、確かに似た柄が用いられています。ですが、サイズや名称など異なるところがいくつもあります。例えば、六角形柄は『麻の葉』に、ダイヤモンド柄はもっと細かくなって『魚子(ななこ)』柄へと変わりました。着物の江戸小紋などに使われている、日本の伝統紋様に強い影響を受けたようですね」(清水さん)

 

「ガラス食器が明治時代から現代に至るまで廃れなかったのは、少なからずとも江戸切子のおかげだと僕は思っています。

明治初期に東京で産業として興ったガラスの製造が、カット加工技術の江戸切子と出会って、東京発のものづくりという色を濃くしたなと思います」(廣田さん)

 

現在の清水硝子は、職人7人のうち5人が女性。以前は体力勝負だった江戸切子の世界も、つくるものが小さくなったことで性別はほぼ関係なくなりました。新たにガラスの世界に飛び込んだ職人たちが新しい技法や作品を生み、次の世代へバトンをつなぐ可能性がある。そう考えると楽しみになります。

 

 

 

 

 

和ガラスが、歴史あるものと認められる日まで

サントリー美術館や富山市ガラス美術館、東京・町田市立博物館のように、ガラス品の収集や研究を行う施設は増えてきたものの、ガラスの歴史を体系立てて展示する博物館は日本にはまだありません。日本でも、緻密な技術や表現によって独自のガラス製品が生まれてきたのは紛れもない事実で、それを日本工芸史にどのように位置づけるかは課題です。

 

「東京国立博物館にはガラス工芸のブースがありませんが、近現代の工芸品を収集する国立工芸館にはある。それを踏まえると、まだガラスは歴史が浅いと考えられているのでしょうね」(清水さん)

 

「江戸切子が日本で生まれて190年、弊社が2024年で創業125年。歴史あるものと認められるまで頑張らなければなりませんね。考古学において、非破壊検査によるガラス製品の研究も進んでいると耳にしますけど、紀元前の人びとがガラスをどうやって溶かしていたのかずっと謎なんですよ。ガラスは最低でも1300℃はないと溶かせません。江戸後期に佐賀に反射炉ができた頃ならいざ知らず、紀元前にどんな技術があったのだろうかと。正倉院のペルシアの器も紀元前のものには見えない美しさですし、宇宙人が持ってきたのではないかと思わせる神秘さがありますね」(廣田さん)

 

遠い世界からもたらされたガラスに焦がれ、いつしか江戸切子を含めた「和ガラス」を生み出した日本。神秘さに満ちたガラスは人の手から手へ、国から国へと渡って新しい文化と歴史の裾野を広げていく。その繰り返しによって、新たな未来がつくられていくのでしょう。

 

 

 

文 木村早苗

写真 yuki tsunesumi

校閲 Yuki Takimoto