「一度、見ておいた方がいい」
先日、私が深く信頼を寄せる、ガラスにとても詳しい同業者と話をしていたときのことです。話題が品川硝子製造所の跡地に及んだ際、その方が何気なく口にした言葉が、強く心に残りました。
「ガラスの仕事をしているなら、一度、見ておいた方がいい」
私は東京で長くガラス食器の仕事に携わってきました。品川に記念碑があることも知っていました。それでも、同じ東京にあるからこそ「いつか行けるだろう」と思うまま、実際に足を運ぶ機会を先送りにしていました。
ある日の午後、少し時間ができたときに、ふとその言葉を思い出しました。資料を読んで知識を得るだけではなく、自分の足で現地へ行き、今どのような姿で残されているのかを確かめてみたい。そう考え、品川へ向かいました。
明治維新後、日本が殖産興業を掲げ、西洋の技術を取り入れながら近代産業を育てようとしていた時代。そのなかで、ガラスはどのように「産業」として位置づけられていったのか。なぜ、その試みは品川で行われたのか。どこか自分の仕事の根を確かめに行くような気持ちで、跡地を訪ねました。

官営品川硝子製造所跡の碑(筆者撮影)
碑だけが静かに残る場所
現地で目にしたのは、高架のそばにひっそりと立つ碑でした。官営品川硝子製造所の跡地は、現在の品川区北品川四丁目にあります。この場所がかつてガラス工場であったことを伝える記念碑が建てられ、跡地は品川区の指定史跡となっています。
街並みも景色も、そして時代も大きく変わりました。現地に立っても、当時の工場の姿をそのまま思い描くことは容易ではありません。現在品川硝子製造所の煉瓦造りの建物のうち一棟は、1968(昭和43)年に解体され、翌1969(昭和44)年に愛知県犬山市の博物館明治村へ移築されました。現在は「工部省品川硝子製造所」として保存公開されています。
それでも、この跡地で約150年前、ガラスに携わる人々が国産化に挑み、何度も試行錯誤を重ねていたと考えると、日常で何気なく目にしているガラスの見え方が少し変わります。ガラスを生業としている自分自身も、もっとこの産業の歩みを知らなければならない。現地に立ち、その思いを改めて深くしました。

現地の解説板。官営時代の建物の一部が博物館明治村へ移築保存されたことが記されています(筆者撮影)
東京のガラスの「始まり」は一つではない
品川硝子製造所は、日本の近代ガラス工業の発展を考えるうえで、欠かすことのできない場所です。ただし、東京におけるガラスづくりそのものが、品川から突然始まったわけではありません。
東京都の資料によれば、江戸では18世紀初頭、日本橋通塩町の加賀屋(皆川)久兵衛が江戸切子そして鏡や眼鏡などを、浅草の上総屋留三郎が簪や風鈴などを製作したことが、ガラス製造の始まりとされています。近世のガラス製造技術は、長崎から大阪、京都を経て江戸へ伝わり、江戸では日常の器や瓶に加え、寒暖計や比重計などの理化学用品もつくられるようになりました。
つまり、江戸にはすでに、職人によるガラスづくりの流れが存在していました。そこへ明治時代になり、西洋式の設備と技術を備えた工場生産が導入されます。その重要な拠点の一つが、官営品川硝子製造所でした。
官営品川硝子製造所の前身は、1873(明治6)年、当時の東海寺境内に創設された洋式ガラス工場「興業社」です。1876(明治9)年には工部省がこれを買収し、官営の硝子製造所としました。英国人技術者を迎え、食器や幻燈用の紅色ガラス、板ガラス、ガラス瓶など、さまざまな製品の国産化が試みられました。
江戸から続く手仕事の流れと、明治政府が進めた近代工業化の流れ。東京のガラス産業は、その複数の水脈が合わさることで形づくられていったと考える方が、実態に近いように思います。
成功だけでは語れない近代化の歩み
現在では、ガラス食器もガラス瓶も窓ガラスも、私たちの身近にある存在です。しかし当時の日本にとって、これらは近代的な生活や産業を支える重要な製品でした。飲み物を口に運ぶための器、薬品を保存する瓶、建物に用いる板ガラス、照明や理化学分野で使われるガラス。社会の近代化が進むほど、ガラスの用途も広がっていきます。ガラスは、美しい工芸品であるだけではありません。衛生、医療、建築、科学、照明など、社会の基盤を支える工業材料でもあったのです。
しかし、品川硝子製造所としての歩みは決して平坦ではありませんでした。1885(明治18)年には民間へ払い下げられ、その後は民間工場として再出発します。しかし経営は安定せず、1892(明治25)年に会社は解散しました。
一つの事業として見れば、長く続いた工場ではありません。それでも、西洋の設備を導入し、英国人技術者の指導のもとで実際にガラス製造を試み、日本人技術者の育成と経験の蓄積に寄与したことには、大きな意味がありました。
産業の歴史を振り返るとき、私たちは長く続いた会社や、大きく成長した工場に目を向けられがちです。しかし実際の多くは思うような成果を上げられなかった会社や職人たちの試みも、次の時代の土台になっています。品川硝子製造所の歴史からは、近代化もガラス製造も、海外の技術を取り入れれば、すぐに成功するような単純なものではなかったことが見えてきます。

碑の傍らに置かれた珪石(筆者撮影)
跡地に立って考えたこと
普段この場所を通る人のうち、ここが日本の近代ガラス工業に関わる重要な場所であることを、どれほどの人が知っているのでしょうか。碑と、傍らに置かれた珪石だけが残る静かな場所です。しかし、その背景を知れば、ここでガラス製造に挑んだ技術者や職人たちの姿を想像することができます。ガラスの製造歴史は、そこで交わされた知識や、積み重ねられた経験、そこから広がった技術は、別の場所で形を変えながら受け継がれていきます。
一方、東京のガラスづくりは、江戸以来の職人技術と、明治以降の近代的な製造技術を重ねながら、やがて地場産業として発展していきました。現在も、墨田区、江東区、江戸川区、葛飾区などの墨東地域はガラスの主な製造地域とされています。品川の近代工業化の試みと、東京東部墨東地域に根づいた日用ガラスのものづくり。その両方を視野に入れることで、東京のガラス産業の歩みをより知ることが出来ます。

碑には「昭和四十年十二月吉日建立」と刻まれています(筆者撮影)
今あるガラス製造技術や製品は、ある日突然生まれたものではありません。新しい技術や製造方法に挑戦した人、思うような結果を得られなかった人、様々な先人が築いた技術を受け継いだ人、時代に合わせて用途を変えてきた人。多くの積み重ねの上に、現在のガラスがあります。
一方で、年々、受け継がれてきた技法や製法を維持することは難しくなっています。一度失われた技術は、機械設備とは違い簡単に元へ戻すことができません。人から人へ受け継がれる経験則や身体感覚は、時間をかけて育まれるものです。時代に合わせて形を変えながらも、何を未来へ残すべきか。その問いに、今この仕事に携わる者として向き合う必要があると感じています。
名を刻んだ人々の思い
「近代硝子工業発祥之地」の碑文の末尾には、「昭和四十年十二月」と刻まれています。碑の裏側には、建立に協力した多くの会社や個人の名が残されていました。
長くガラスを生業としてきた廣田硝子にとって、そこに廣田榮次郎(廣田硝子二代目)の名を見つけたことは、思いがけない出来事でした。安堵と感謝、そして時代を越えてガラスへの想いが共有されていたことへの喜びがありました。
そしてそこに刻まれた名からは、この場所を後世に伝えようとした当時のガラス業界の人々の思いが感じられます。時代が変わり、産業の姿が変わっても、自分たちの源流を記録し、次の世代へ手渡そうとした人たちがいたのです。

碑の裏側には、建立に協力した会社・個人の名が刻まれています(筆者撮影)
ガラスの向こうにある、人と土地と歴史
ガラス産業に携わっているからこそ知ることのできる歴史、工場、職人、道具、そして地域との関わりがあります。それらをガラス業界の中だけにとどめるのではなく、これから少しずつ自分の足で訪ね、記録し、皆さまにお伝えしていきたいと考えています。
ガラスの向こうにある、人と土地と歴史。その背景を知ることで、ガラスに興味を持ち、今まで以上に好きになっていただけたなら、これほどうれしいことはありません。
参考資料